「東宝ハウスを創る人たち」ホールディングス社長:佐井川稔編
【東宝ハウスを創る人たち】AIをはじめとしたテクノロジーが進化し、あらゆる業務が効率化・最適化される時代。だからこそ、私…
東宝ハウスライフソリューションズグループ(TLSグループ)は、不動産仲介を担う営業会社25社と、アフターサービス専門の株式会社東宝ハウスNEXT、銀行代理業を行う株式会社東宝ハウスフィナンシャルを展開する企業グループです。
不動産の引き渡しだけで終わらず、「入居がスタート」をモットーとして入居後の暮らしに寄り添い、「住まい」や「暮らし」に関する多様なソリューションを提供しています。
シリーズ企画の第1回目は、グループを率いる佐井川稔社長に、自身の半生やグループの未来に向けた思いなどをお話しいただきました。
※動画で確認したい方は、以下よりご参照いただけます。
「東宝ハウスを創る人たち」ホールディングス社長:佐井川稔編
【東宝ハウスを創る人たち】AIをはじめとしたテクノロジーが進化し、あらゆる業務が効率化・最適化される時代。だからこそ、私…
私が生まれたのは、和歌山県中部の御坊市です。
両親と兄、妹がいる5人家族の次男で、幼少期は相当なやんちゃ坊主でした。
いたずらが大好きで、近所の小学生や中学生も「佐井川の次男には、何をされるかわからないから」と、私の家の前を通るのを避けて登下校をしていたという話を母に聞いたことがあります。
小学校低学年の頃は落ち着きがなく、廊下どころか校庭の朝礼台に立たされたこともありました。
そんな私でしたが、両親からの愛情をたっぷり受けて育ちました。
決して裕福な家庭ではなかったものの、この父と母のもとに生まれたことに本当に感謝しています。
ちなみに、私が結婚した28歳のとき、両親には新築の家を建ててあげることができました。
社会人2年目からは毎月仕送りをし、旅行もプレゼントできたので、本当に良かったと思っています。
小学校2年生のときに野球を始めます。
全国の強豪校が多い和歌山県は当時から野球が盛んな地域で、私も従兄からお下がりのグローブをもらって始めました。
体が大きかった私はエースで4番。
中学時代は県大会で優勝し、近畿大会に出場したこともあります。
中学校の野球部の指導者が1965年のセンバツ(春の甲子園)で準優勝したときにコーチを務めていた縁で、智弁和歌山など多数の強豪校から声がかかったのですが、高校は市立和歌山商業(現・市立和歌山高校)へと進みました。
入学後はOBの自宅の離れに下宿し、高卒プロ入りを目指して野球漬けの毎日でした。
正月も10キロ走って初詣に行き、遠足は「弁当を食べたら学校に帰ってこい」と言われました。
秋の新人戦があったので、修学旅行にも参加できませんでした。
台風で休校になったときも、「体育館で練習する」と連絡が回ってきて、合羽と長靴の格好で何とかたどり着いた記憶があります。
精神的にも肉体的にも追い込まれた高校生活は、今でも二度と経験したくはありません。
でも、高校時代は間違いなく私の原点であると言い切れます。
社会人になってから苦しいことがあっても、「あの頃に比べたら楽勝だ」と乗り越えることができました。
高校時代は、けがをしてしまったこともあり、プロ入りは断念せざるを得ませんでした。
それでも、野球は続けることができ、縁があって青山学院大学の硬式野球部に入ることとなりました。
脚力には自信があったので、高校を卒業したら競輪選手を目指そうと思っていたのですが、担任の先生に「大学に行け」と言われました。
実は、高校入試の点数は私が学年トップでした。
先生も、それを覚えてくださっていたのでしょう。
家庭の事情もあり、大学など考えてもいなかったのですが、先生は私の両親のもとを訪れ、「大学に行かせてやってください。佐井川の成績なら特別奨学金も借りられるし、寮に入れば生活費も安く済みます」と掛け合ってくださいました。
先生は、私の人生にとって恩師と呼べる方です。
野球部の厳しい練習は、雨が降ると早く終わります。
ようやく息抜きができる貴重なタイミングなのですが、先生は私に本を渡し、「感想を聞かせてほしい」と言いました。
「えっ?」と驚いたのですが、先生は歴史の本や偉人の伝記など、読みやすい本を選んでくださいました。
そのおかげで、ほどなく読書の習慣が身につきました。
先生からは大学生になってからも本が送られてきて、自分でも司馬遼太郎(※)の書籍や世界史の本を買って読み漁りました。
歴史を知ることは、世の中、そして人間を知ることでもあります。
さまざまな知識をインプットして、自分で考える習慣を身につけられたのは、本当に大きな財産になりました。
大学でも野球漬けの日々を送りました。
プロ入りは無理でも、社会人野球の選手になることはできたかもしれません。
しかし、卒業後も野球を続けるつもりはありませんでした。
当時の私は、「稼ぎたい」「偉くなりたい」という野心に燃えていたのです。
東宝ハウスとの出会いは、野球部の親友に紹介されたことがきっかけでした。
ある日、彼に「一旗揚げたい」というような話をしたところ、「知り合いに面白い不動産会社の社長がいるので会ってみる?」と言われました。
そうして紹介されたのが、当時41歳だった現会長です。
その頃の東宝ハウスは創業から10年も経っておらず、社員数は100人に満たない小さな会社でした。
同級生の多くが有名企業への就職を決めていた中、無名の東宝ハウスを選ぶことには野球部の仲間からもクラスの友人からも、そして母からも強く反対されました。
そんな中、現会長には「とにかく君はうちに来い。3年目で営業成績が10番以内に入れるよう仕込むし、君なら楽勝でクリアできる」と熱心に誘われたのです。
さらに、「25歳で課長になれ。マネージャーとして強いチームをつくったら、入社10年を目標に営業会社の社長になれ」とまで言われました。
もちろん、「本当に大丈夫なのかな?」と、不安な気持ちもあったのは事実です。
しかし、「早くチャンスをもらえそうなのは間違いない。頑張って力をつけておけば、潰しも利くだろう。衣食住の仕事がなくなることはないので、場合によっては独立できるかもしれない」と考え、最後は「この人についていくしかない」と決めました。
1984年4月、私は新卒入社第1号の社員となりました。
振り返ると、私の人生は本当に人に恵まれたと思います。
今もたまに「成功の秘訣」を尋ねられることがあるのですが、謙遜でも何でもなく「運」があったからだと確信しています。
私にとっての「運」とは、人との出会いです。
両親のもとに生まれ、中学の野球指導者、高校の担任、そして親友を通じて現会長に出会うことができました。
本当に人との出会いに恵まれたからこそ、今の自分があると思っています。
入社後は、当時の本社があった国分寺に配属され、向こう3年間で1番の営業成績を上げることを目指しました。
結局、1番にはなれなかったものの、4番にはなれて、25歳ながら新店舗の町田で課長になりました。
5人の部下は全員30代~50代でしたが、マネージャーとしての基礎をつくってくれた貴重な3年間でした。
年上の部下たちを前に私が考えていたのは、「自分の言うことを聞かせよう」ということではありません。
「この人たちを稼がせるために自分に何ができるか」ということです。
体力・気力は人一倍あったので、物件収集・下見や、ご訪問など、管理職なら一切やる必要がない業務を率先して引き受け、部下たちが営業活動に集中できる環境をつくりました。
すると、半年後には全員の成績が上がり始めたのです。
1年後には、みんなが「課長、課長」と慕ってくれるようになりました。
28歳で横浜の新店舗の次長になり、管理職の中で3年連続1位をいただきました。
町田で経験した3年間が本当に活き、横浜時代の3年間は、やりがいと生きがいを感じながら楽しく働くことができました。
埼玉県大宮市に誕生した営業会社の社長を任されたのは1993年9月、31歳のときです。
当時10社もなかった営業会社が埼玉県に初めて進出したのですが、地場の売り主の業者たちから物件を出してもらえないなど苦難が続きました。
それでも、現会長が34歳でゼロから会社を起こしたことを考えれば、「こんなに恵まれている環境で、うまくいかないわけがない」と思えました。
広告をどんどん出し、集客がしっかりできるようになると、「どうやら売れているらしい」という評判が広まり、業者もだんだんこちらを向いてくれるようになりました。
大宮の販売会社に10年在籍し、会長の指示を受けてホールディングスに戻ったのは41歳のときです。
最初の半年間ほどは常務を経験し、社長として全権を任されるようになって現在に至ります。
今年で64歳になりますので、もう22~23年になります。
現会長が、たった1人で起業したときに肝に銘じたのは、「絶対に会社を潰さない」ということでした。
「若くして起業した人が、なぜそんなことを考えたのか?」と不思議に思うかもしれませんが、会長は25歳のとき、勤めていた会社の倒産を経験しています。
また、デベロッパーの本部長として400人もの部下を率いていた32歳の頃にはオイルショックに見舞われ、会社から100人のリストラを命じられました。
その会社も、後に倒産しています。
良いときも悪いときも経験した中、たった1人で家族も抱えて会社を始めた現会長が教訓としたのは、「法人も個人も死んでしまえば終わり」ということです。
会社を永続させるため、東宝ハウスが創業から変わらず貫いている経営方針は3つあります。
それは「無借金経営」と「モノ(物件)を持たない」、そして「人(社員)がすべて」です。
現会長からは「我々が勝ち続けるためには、時代の変化を読み解き、挑戦して進化しなければならない。それができれば、売上や利益は必ずついてくる」と教わりました。
そうした中、私が最も着目してきたのは、コンピューターとインターネットの普及に伴うインフォメーションテクノロジーの変化です。
ネットが一般化する前、不動産会社が持っている物件などの情報は、質量ともにお客様を圧倒していました。
ところが、あらゆる情報がネット上に集まり始めると、不動産会社の優位性はどんどん消えていったのです。
さらに、検索エンジンが出てくると、タイムリーで正確な情報をいつでも無料で手に入れられるようになりました。
そうこうしているうちに登場したのが、SNSなるものです。
法人も個人もみんなが情報を発信し、つながって広がる時代がやって来ました。
人々のポケット、かばんにカメラ付きの高性能コンピューターであるスマートフォンがある今は、すべてのことが指先ひとつで表面化します。
企業などの都合でモノやサービスを発信したり、世論を誘導したりできる時代ではありません。
良いことも悪いことも、すべてが表面化するということは、物事の真価が問われるということでもあります。
我々が扱っているのは、不動産としての価値があるモノです、しかし、「モノを持たない」と決めている以上、自社の所有物を取り扱うことはありません。
他人のモノをどう売るか、さばくかに終始していては、東宝ハウスでなくてもできますし、代わりが利く会社が必要とされなくなるのは目に見えています。
そんな危機感を抱き、コンサルタントや役員、管理職とは侃々諤々の議論を重ねました。
グループが存続しているのは、そうして構築し直した理念やビジョン、マインドをリブランドにつなげたことが奏功したからだと思っています。
2026年には創業50周年を迎えます。現会長が第1世代なら、私は第2世代です。
次の第3世代のリーダーたちに伝えているのは、「第4世代、第5世代、さらには第6世代のことまで考えよう」ということです。
100年企業になるために、どうしていくべきかを一生懸命に議論しています。
AIの普及・進化もあって情報の民主化が加速する中では、顧客価値の創造に取り組んでいます。
当然ながら、顧客価値を評価するのはお客様です。
「物件の良し悪しではなく、あなただから、東宝ハウスだから買います」と言われる個人・法人になるには、モノ以外の価値を創造するしかないと思っています。
そのためには、お客様を最優先とする「User First」の思いと、お客様の幸せを追求する「User Happiness」の行動を徹底しなければなりません。
そのような思いと行動がお客様に評価されれば、社員も物心両面において豊かで幸せな人生を手に入れることができます。
「Member Happiness」を叶えられる社員が増えれば、会社が発展しないはずはありません。
我々は「入居がスタート」というフレーズも大切にし、お客様の住まう「コト」をサポートしています。
グループの名称を「東宝ハウスライフソリューションズグループ(TLSグループ)」に刷新したのも、我々は住まいや暮らしをサポートするコンサルティング企業であるという意識の表れです。
一流のコンサルタントであるメンバーが、それぞれのお客様にとって最適な「ライフソリューションズ」をご提案します。
これからも、我々の理念やビジョン、マインドに共感してくれるメンバーを迎え入れながら、さらなる顧客価値の創造に投資をしていきたいと思っています。
人に恵まれた私の半生は、本当にありがたく、素晴らしいものでした。
これまで受けた恩を、次の20~30年を担う世代にも送っていくことが自分の使命だと考えています。
一線から退くべきタイミングが来れば潔く身を引き、まだ見ぬ世界を旅して回りたいと思っています。
これまでさまざまな国や地域を訪れましたが、まだまだ好奇心は旺盛です。
旅を通して新たな気付きや学びを得るのはもちろん、外から日本を見つめることにも興味があります。
また、3歳と6歳の孫たちが成人するまでは、元気でいたいと思っています。
子や孫、そして会社の後世を担うメンバーにも、夢と希望を送っていきたいですね。
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